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額縁ショー 戻る 

左から秦豊吉(丸木砂土)、郷田三郎、小林一三(いちぞう)


 日本最初のヌードショーは昭和22年正月に新宿の映画館・帝都座(いまのマルイデパート)の五階小劇場で行われた。
 小劇場のプロデューサーは秦豊吉(はた・とよきち)という55歳の男だ。どっしりとした巨躯、右頬に黒子をもった丸顔、いかにもお金持ちのエッチなオジさんといった風貌の男である。

 しかし、秦豊吉は
ただのエッチなオジさんではなかった
○芥川龍之介と同期で東大を卒業、三菱商社マンとして大正9年より七年間にわたってベルリン勤務。映画「カリガリ博士」などを輸入。
○帰国後、小説「西部戦線異常なし」を翻訳、ベストセラーとなる。
○同時期に、丸木砂土(マルキ・サド)のペンネームで「夜の話・昼の話」、「世界艶笑芸術」、「女体西部戦線」などのエロ小説、エロ紀行を執筆、サド作品の翻訳紹介にもつとめる。おかげで何度か警察のやっかいに。
○昭和10年から宝塚少女歌劇の阪急社長・小林一三のもとで、東京宝塚(のちの東宝)を任せられる。日本劇場のプロデューサとして日劇ダンシングチームを育成、日本初の本格的レビュー団とする。この頃から、可憐な女だけのショーを好む小林社長と対立する。
○昭和13年、宝塚少女歌劇団の総監督として最初の海外公演を指揮する。11月3日、ベルリンでのユダヤ人排斥運動『水晶の夜』を経験する。
○東宝副社長として戦後、公職追放を受ける。

 
 秦豊吉は小劇場にヌードを出すことを計画した。彼の頭にあったのは第一次大戦後のベルリンではやった「生きた大理石像」(全裸の女が舞台でギリシャ・ローマ時代の彫刻を真似た姿で静止したポーズをとる)である。日劇ダンシングチームから引き抜いたダンサーを用い、ポーズは東郷青児が担当した。『名画アルバム』と題したヴァラエティショーは半裸(ときに上半身は完全にヌードで乳房が見えることもあった)の女達が額縁の中で名画をイメージしたポーズをとるものである。このショーは大当たりをとり
、「額縁ショー」として評判となった。小劇場は毎日定員の四倍以上の客が階段に並ぶありさまだったという。

 額縁ショーは昭和22年の五月に終了したが、秦は同年3月に発表された田村泰次郎の『肉体の門』を8月に帝都座で舞台化した(のちに空気座へ移る)。パンパン同士の凄惨なリンチシーンで有名な作品であるが、着物姿の戦争未亡人が縛られるシーンでは着物の前がはだけて乳房がそっくり現れるハプニングが起きておおいに話題になった。また、宙吊りとされたヒロインの上半身裸の背に革のベルトが当たる
サディスティックな場面も大好評だった。

東京の噂
★殿方は裸がお好き

 このごろの殿方は、強烈な刺激を求めている。
 空気座の
「肉体の門」が東京で五カ月続演の大当たりを取ったのも、パンパンガールが仲間を縛りつけ、上半身をハダカにして鞭でひっぱたくリンチの場面に、サジズム的な昂奮を感じさせるからだ。
 そこで、抜け目のない興行者は、苦労して脚本を探したり高い出演料を払って流行歌手を出すよりも、若い女の子を舞台でハダカにしたほうが、手っとり早く客が殺到するので競争でハダカを登場させた。
 このハダカの元祖は、
名にしおうエロ随筆の大家丸木砂土の指導する東京は新宿帝都座五階劇場の帝都座ショウで、泰西の名画を気どって甲斐美春という踊子が額ぶちの中で大切なところだけかくして活人画みたいにジッと立っているだけだったが、これが大評判となって連日超満員の大入り。
 これが皮切りとなって、浅草、丸の内、渋谷をはじめ各所にハダカが出没。踊り子ばかりか本職のモデルまで登場して、一時はハダカの全盛を呈した。
 去年一年間に浅草の興行で一番黒字を出したのが常盤座で、今は亡きアノネオッサンの高勢実業劇団と合同出演したハダカだったそうだから、ハダカの効能がいかに絶大だったかわかる。
 しかもこのハダカたるや、東京を始め六大都市はいうに及ばず、地方にまで進出し、今では全国津々浦々にまで蔓延して、おかげで巡業先でハダカの一座に出会おうものなら、いかなる名優といえども忽ちゴソッと客を持ってゆかれ、被害は甚大。・・・(途中略)・・・
 
 このハダカがすこし下火になったと思ったら、こんどは
会員組織のハダカ・レヴュが東京に出現。公開の劇場では大切な所をかくしているし、活人画みたいに絶対に身動きしないが、この会員組織のほうは全部丸出しでおまけに勇敢に踊ったりするのだから、刺激を求める紳士は大喜び。
 初めのうちは池袋の小さな劇場で、舞台稽古と称して会員券一枚三百円ぐらいだったのが、次第に都心へ進出し、会員券も五百円から七百円と値上がりして、銀座から程近い港区田村町の観光ホテルの地階ホールで開催した時に、ついに御用となり、主催者の成瀬某は猥芸罪で検事局から告訴された。
 まことに寒心すべき時勢だが、これも永いことはあるまい。

 「東京」昭和23年3月号 より

 戦前の欧米のエロ本を収集していた秦は、その膨大な知識を使い、昭和24年6月から雑誌「夫婦生活」に丸木砂土名義で小説、評論、対談、を発表した。一冊の雑誌にあまり多くの丸木の名前が並んだため、他のペンネーム、さらに本名も使う始末であった。



「夫婦生活」昭和26年2月号より

 昭和25年、公職追放解除後に帝国劇場(帝劇)社長に迎えられてからも、秦は精力的に「夫婦生活」に投稿を続けたが、昭和31年、64歳で没した。半年後、長年のライバルであった小林一三(注1)も秦の後を追うように亡くなった。日本のエロ世界に多大な貢献をした人物であったが、現在は「額縁ショーを始めた変人」ぐらいとしか評価されていないのは残念である。


注1)小林一三のつくったもの
 駅デパート、建売住宅、中吊り広告、全国高校野球大会、宝塚少女歌劇、デパートの最上階に食堂・・・その他いろいろ
 孫はテニスの松岡修造


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